いつもの昼下がり。通い慣れたスーパーへ夕食の買い物に訪れた主婦は、パックに入った鶏肉を手に取った。友人と談笑しながら買い物をしていた若いお母さんは、食べ盛りの子どもが大好きな「チアーズ」のチキンウインナーを買い物かごに入れた。青空が広がった日曜日。久々のドライブを楽しんだ家族連れは、ケンタッキーフライドチキンに寄ってセットメニューをテークアウトした。「もう食べていい?」。家に帰るまで待ち切れない、子どもの明るい声が車内に響く。
 海から開け、海の恩恵を受けて発展してきた八戸市。そんな北の水産都市に、鶏肉の生産や加工品の製造、販売までを一貫して手掛ける食鳥産業のリーディングカンパニーが存在する。チアーズのブランドで知られるプライフーズだ。八戸と東京の両本社から連なるネットワークは全国に広がる。工場や営業所などの拠点は46カ所、全従業員は約2700人。主力のブロイラー事業の販売羽数は、自社生産を中心に年間約5千万羽に上る。昨今のヘルシー志向の高まりによる鶏肉人気も追い風となり、年商は700億円に迫る勢いだ。業界のトップリーダーである事実に、異を唱える者はいないだろう。
 だが、プライフーズは急速に台頭してきた企業ではない。地元に根を張り、八戸地域の高度経済成長と時を同じくして歩みを進めてきた。今に至る発展の歴史を語るには、前身の第一ブロイラーが創業した半世紀以上前にさかのぼり、未来を切り開いた人々の奮闘と喜怒哀楽をひもとく必要がある。
 長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)は1916年、旧百石町で漁師の三男として生まれた。海産物問屋で働いた後、八戸魚市場で勤務。そこで自身の人生に大きな影響を与える人物と出会う。後に衆院議員となる地元の名士、熊谷義雄(くまがい・よしお)だ。45年の太平洋戦争終結は、旧ソ連のシベリアで迎えた。ウラジオストクで抑留され、収容所生活は4年余りに及んだ。八戸に戻れたのは49年12月。年明けに熊谷が経営する太洋水産に入社し、数年で常務取締役に出世するなど、右腕として活躍した。

 転機は63年に訪れた。その年の11月、熊谷が衆院選に当選。国政進出を機に、経営する複数の会社を整理することになった。畜産配合飼料を販売する大和物産も対象の一社。しかし、そこに飼料を卸していた総合商社の三井物産から「待った」が掛かった。強い要請を受け、長谷川は大和物産の事業を引き継ぐ形で独立。新会社の第一農産を設立し、社長に就任した。長谷川は48歳。少年期から携わってきた水産業と「海」に別れを告げ、「陸」に上がって畜産分野に挑戦した。
 65年2月にはブロイラー生産に乗り出し、第一食肉センターを設立。翌年、社名変更で第一ブロイラーが誕生した。日本経済は当時、東京五輪後の不況が収束し、いざなぎ景気に突入していた。激動の時代に長谷川が築いた企業の礎。そのときはまだ、現代のプライフーズが産声を上げたことを、誰も知る由もない。
 第一ブロイラーは1965年に設立された。時代はブロイラー産業の黎明(れいめい)期。肉質が柔らかく、効率良く育てやすいよう品種改良されたブロイラー専用の鶏が海外から導入されるのは、まだ先の話である。当時は「抜きオス」と呼ばれる採卵鶏の雄のひなを育てていた。採卵養鶏では必要としない雄を、食肉用として利用したのだ。だが、肝心のひなを仕入れる段階から壁にぶつかった。
 「また何羽も死んでるよ」
 「これは弱り切っている」
 社長の長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)は悩んでいた。抜きオスのひなは東北地方や関東方面が仕入れ先。夜汽車に長時間揺られて尻内駅(現八戸駅)に着くと、既に死んでしまっていたひなも少なくない。夏は厳しい暑さに、冬はいてつく寒さに耐えられず、何とか生き延びても衰弱していた。飼育した鶏を販売用に処理する工程もほとんどが手作業。一羽一羽、時間をかけて処理し、内臓を付けたままの「屠体(とたい)」と呼ばれる状態で出荷した。
 販売面では、さらなる困難が待ち受けていた。大口の出荷先は東京の卸問屋。簡素な木箱に鶏肉と氷を入れてトラックの荷台に載せ、シートを掛けて八戸から東京まで輸送する。だが、未整備区間もある道路を片道10時間以上かけて夜通し走ると、鶏肉の鮮度は落ちてしまう。安く買いたたかれることもしばしばで、東京に出荷すればするほど、赤字額は増えていった。

 次から次に押し寄せる難題に苦労は尽きなかったが、長谷川はブロイラー事業の将来性を見据えていた。確かな自信があった。
 「鶏肉が必要になる時代は間もなくやって来る」
 独自のコネクションを生かし、有為な人材の獲得に動いた。「これは」と思った人間は熱意を持って口説き落とした。長谷川の人を見極める目は確かで、スカウトで集めた社員はその後の第一ブロイラーの屋台骨を築いていった。
 仲間を得た長谷川は次なる一手に打って出た。東京で売れないのであれば、地元で売るしかない。66年に東京への出荷を停止し、商品の鶏肉も内臓を取り除いた「中抜き」メインに切り替えた。

 ただ、実は八戸での販売も1度つまずいていた。当時、一般に流通する鶏肉は、老いて卵を産まなくなった「廃鶏」と呼ばれる採卵鶏が主流。ブロイラーという言葉自体が、消費者にも精肉店にも浸透しておらず、営業先では「ブロイラーって何?」「機械の名前?」と聞かれることもあった。
 同年の売上高は1400万円程度で、業績は赤字に陥っていた。だが、長谷川が考えた起死回生の策が、第一ブロイラーの運命を切り開くことになる。
 第一ブロイラー社長の長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)には、まだ認知度が低いブロイラーを売り込む妙策があった。
 「肉屋が買ってくれないなら、その先に直接売るしかない」
 八戸市内の料理店やレストラン、ホテルなどに営業攻勢を掛けて調理責任者を集めてブロイラーを宣伝。飲食業界での知名度アップを図りつつ、「卸商を通さずに仕入れられるよ」と価格面のメリットを強調した。家庭の財布を預かる主婦層にもブロイラーを使った料理を紹介して普及につなげた。

 夜には繁華街のスナックや小料理屋で鶏の唐揚げを売り歩いた。1964年に開催された東京五輪の熱気と経済効果が八戸にも及んだ時代。日中の仕事を終えた後に、営業担当の社員はパック詰めした唐揚げを担いで街へと駆け出した。店の開拓は積極果敢な飛び込み営業。当初は疑心暗鬼だった店も次第に歓迎するようになり、口コミで第一ブロイラーの評判が広まった。揚げたてでジューシーな唐揚げはビールのつまみにぴったり。ほろ酔い状態の来店客は「待ってました!」と営業マンたちを迎え入れる。

 鶏肉を余さず食材として利用しようと、お手製の焼き鳥も販売。トップの長谷川以下、社員総出で肉を串に刺す作業に励んだ。地元の物産展で、おいしそうに焼き鳥を頬張る家族連れを見た長谷川は、すぐ目の前まで食鳥産業の拡大期が迫ってきていることを確信した。
 卸売業者ではなく、その先の飲食店や消費者にブロイラーを直売する方法は画期的で、現代では“川下戦略”と呼ばれるビジネスだ。先見の明に優れた長谷川の経営方針は間違っていなかった。粘り強い営業努力によって精肉店との取引も増え始め、経営基盤を築きながら地元での販売に腰を据えた。「食の洋風化は進んでいく」と長谷川が見込んだ通り、事業は加速度的に拡大。八戸以外の販路開拓の足掛かりとなった青森営業所の開設、東北地方で業界最大規模を誇る八戸工場の新設など、青森、岩手両県を中心に生産、販売体制を強化していった。

 そして、次に長谷川が見詰めた先は、雄大な北の大地だった。第一ブロイラーの北海道進出は69年。函館営業所を開設し、本州と比べてブロイラー事業が遅れていた市場で販路拡大を目指す第一歩を刻んだ。72年には、外食大手「ケンタッキーフライドチキン」の道内の店舗に素材提供を始め、チェーン展開が進むにつれて供給量も増加した。
 「北海道は新たなマーケットになる。まだ誰も手を出していないのなら、われわれがやるんだ」
 地元で成功を収めた第一ブロイラーが羽ばたく舞台は、北海道へと移っていく。
 四方を海に囲まれ、大自然が広がる北海道は農林水産業の適地である。だが、1970年代当時は、気象や立地条件などを理由に、道内でのブロイラーの一貫生産は難しいとされた。業界の常識でもあった。ただ、第一ブロイラー社長の長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)は、広大な北海道と食肉ビジネスに大きな可能性を見いだしていた。
 70年代後半になると、自国の沿岸から200カイリを排他的経済水域と定める国際的な動きが本格化し、遠洋漁業などの日本の水産業界は打撃を受けた。いわゆる「200カイリ時代」の到来だ。長谷川はもともと、水産業に従事していた海の男。こうした情勢を敏感に察知し、魚介類に代わる動物性タンパク源として、食肉の需要が高まることを予期していたのだ。牛や豚に比べ、鶏は短期間で生産できる利点もあった。
 そして84年5月、北海道伊達市に北海道第一ブロイラーを設立し、道内でのブロイラー一貫生産に向けた一大プロジェクトがスタート。総事業費は四十数億円。失敗すれば倒産の危機に直面する、まさに社運を懸けた事業だ。
 第一ブロイラーは各部門から優秀な人材を選抜し、専門チームを結成。プロジェクトの成功に向けて奔走した。伊達市は企業誘致に熱心だったこともあり、とんとん拍子に手続きは進むだろうと思われていた。だが、第一ブロイラーには大きな誤算があった。全面的な支援を約束してくれた行政とは違い、地元住民は養鶏場の建設に強く反発したのだ。
 「この地域の環境に悪影響が出るだろ!」
 「そんなことはない。ちゃんと説明します」
 両者の意見は平行線をたどった。感情的になった住民が、担当者に詰め寄って怒鳴りつけることもあった。市議会や地元の農協、漁協なども巻き込んだ問題に発展し、ついには市長が住民側の説得に当たった。実際の生産現場を確認してもらおうと、青森県内の飼育農場や工場の現地視察も実施。理解を求める努力の結果、次第に反対の声は沈静化へと向かっていった。
 ブロイラーという生き物を扱うため、建設スケジュールに遅れは許されない。会社は総力を挙げ、飼育農場や食鳥処理工場の整備を急ピッチで進めた。現地で従業員も採用し、86年6月に予定する稼働開始に向け、着々と事業体制は築かれていった。
 慌ただしい日々が続く中、社員に訃報が舞い込んできた。85年11月20日、闘病中だった長谷川が死去。北海道プロジェクトの成功を見届ける願いはかなわなかった。享年69歳。先見の明と卓越したリーダーシップを併せ持ち、第一ブロイラーを成長させた偉大な経営者だった。
 創業者の長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)の死去後、1985年12月に第一ブロイラーの2代目社長に就いたのは専務の圓子和夫(まるこ・かずお)だった。長谷川の挑戦を支えてきた創業以来の役員であり、長谷川と同様に従業員からの人望が厚かった。

 自分が部下を信頼すれば、社員はそれに報いようと懸命に働いてくれるという思いがあった。そんな圓子が、第一ブロイラーのさらなる発展に向けて目指したのが「総合食品会社への脱皮」だった。
 第一ブロイラーは鶏の生産から販売までを一貫して手掛ける一方、70年からは加工食品の製造にも着手。鶏肉を使ったロールキャベツやミートボールなどを開発し、業務用は順調に売り上げを伸ばしていた。だが、80年代になると、地方にもスーパーマーケットが相次いで出店するなど買い物環境が変化。小売店で購入する一般消費者への浸透が重要になった。総合食品会社へ成長を遂げるには、加工食品のてこ入れは避けて通れない。
 圓子が社長に就任する約2年前。社内では加工食品の販売拡大に向けたプロジェクトが動きだしていた。
 「第一ブロイラーの社名は長過ぎて、認知されにくいのではないか?」
 「鶏肉の素材メーカーという印象が強いのでは?」
 スーパーで消費者にPRする戦略を練る過程で、さまざまな課題が浮上した。そしてたどり着いたのが、加工食品への新たなブランドの導入だった。コンサルティング会社に依頼し、企業や商品のイメージを表現するブランドネームの検討を重ね、最終的に「チアーズ」が誕生した。

 英語で「元気な」を表すチアーズ。他に「ごちそう」「乾杯」「喝采」などの意味もあり、ポジティブなブランド名は「響きがいい!」と社員からも好評だった。
 83年9月、チアーズの名とシンボルマークが付いた商品が世に送り出された。その際、圓子らはブランド運用の二つの方針を定めた。①値段で売るのではなく、品質の高さで勝負するブランドとしてチアーズを育て、消費者に認知してもらう②商品パッケージや広告宣伝には第一ブロイラーの社名は出さず、チアーズ一本でアピールする―という約束事だった。

 最初は苦戦が続いたが、テレビコマーシャルも効果的に流しつつ、二つの方針は我慢強く堅持した。すると、数カ月後には爆発的な売れ行きに。特にチキンウインナーは、第一ブロイラーを代表する大ヒット商品となった。
 「あなたの会社、大変だよ。チアーズっていうライバル商品が人気になっているよ!」。営業担当の社員が取引先に“心配”されるほど、チアーズはますます知名度を高め、鶏肉の加工商品は順調に売り上げを伸ばした。
 鶏肉の加工食品に導入した「チアーズ」のブランドは、第一ブロイラーが「総合食品会社」への成長を目指す上で大きな力になった。2代目社長の圓子和夫(まるこ・かずお)はこの好機を逃さず、次々と設備投資に打って出た。

 「チアーズは我が社の代名詞になった。今がチャンスだ」

 1986年4月、加工食品の増産に対応するため、三沢市に三沢加工食品工場を新設。家庭で人気のハムやソーセージ類の基幹工場とし、ドイツ製の加工設備やコンピューター制御の自動包装ラインなどは全て最新式でそろえた。地元では「チアーズ工場」と呼ばれて親しまれた。
 時代はバブル期に突入。88年9月には三沢市にブロイラー処理の主力工場となる細谷工場を新設し、日本初となるシステムの自動解体機を導入した。同年はブロイラーの自主検査制度も新たに取り入れ、当時の食品業界では浸透が浅かった「食の安全・安心」を早くから実践した。

 圓子はまだ投資の手を緩めない。90年9月には五戸町に五戸加工食品工場を開設し、92年10月には八戸工場を新築移転。まさに上り調子だった。

 一方、91年のバブル崩壊は国内の景気後退を招いた。一般家庭は食品の低価格志向を強め、個人消費が低迷。マーケットの価格決定権は消費者へと移った。順調に成長を遂げてきた第一ブロイラーも岐路に立たされ、経営体制の変革が求められる転換点を迎えた。トップの圓子は決断する。
 「時代は変わった。ここで手を打たなければならない」
 第一ブロイラーが将来を展望して選んだ道は、大企業の傘下入りだった。株式譲渡により、創業時から取引、協力関係にあった三井物産への経営権の移譲を決定し、92年12月に合意に達した。こうして、国内有数の総合商社と共に“第二の創業”を果たし、さらなる飛躍のきっかけをつかんだ。
 93年3月には、三井物産出身の簗瀬忠(やなせ・ただし)が3代目社長に就任。消費の冷え込みに加え、輸入鶏肉の増加や価格競争の激化といったマーケットの変化に対応するため、消費者ニーズに向き合った経営を重視した。
 「われわれはこの難局に打ち勝って生き残らなければならない」
 簗瀬は全社員に危機感を訴えて改革に乗り出し、業界他社に先駆け安全で高品質な商品作りに力を注いだ。経営方針としては、三井物産と第一ブロイラーそれぞれの企業文化の両立、融合を目指し、第一ブロイラーを高い収益性と成長力を併せ持つ「強い会社」に育てる目標を掲げた。
 バブル崩壊に伴う“大競争時代”の始まりに、簗瀬が描いた将来ビジョンは、第一ブロイラーを確かな方向へと導いていく。
 1990年代の日本は「新価格革命」や「価格破壊」という言葉が生まれるほど、市場の仕組みが消費者優位に傾いていった。

 第一ブロイラーの3代目社長に就いた三井物産出身の簗瀬忠(やなせ・ただし)は1996年1月、来たる21世紀の新時代を前に、第1次中期経営計画「チアーズ21」を策定。生産コストの引き下げによる競争力の強化や事業の多角化といった経営方針の柱を定めた。骨子の一つに「品質・安全性を重視する商品管理」を掲げ、同年3月には付加価値の高い銘柄鶏として「めぐみどり」を発売。「自然と安心」というコンセプトが消費者に受け入れられた。

 簗瀬は経営基盤の強化を図りつつ、相場に左右されにくい加工食品分野の拡充を推し進める。「これからは企業と消費者の関係がますます直線化する時代になる」と確信。創業以来、第一ブロイラーが全国に広げてきた営業ネットワークは、消費者ニーズを的確に捉えられるアドバンテージとなった。

 簗瀬が種々の改革によって果たした功績は大きく、その経営路線は引き継がれていく。

 99年3月、4代目社長に小出友則(こいで・とものり)が就任。畜産業の寡占化が進む将来を予測し、「勝ち組の中の旗頭的な存在になる」と、業界ナンバーワンを目指す企業活動を本格化させた。

 2003年11月には、三沢市の細谷工場の敷地内にパッケージ工場を新設。生産や製造の履歴を明確化するトレーサビリティー体制を全工程で整え、作り手の顔が見える商品作りを実行した。こうした業界を先導する取り組みは、流通大手との取引拡大につながっていく。
 時代を先読みし過ぎた失敗談もある。近年、消費者の健康意識の高まりを背景に、スーパーやコンビニなどで広く取り扱われているサラダチキン。鶏むね肉を使ったヘルシーな加工食品として、特に女性から支持を集めている。現代を代表する大ヒット商品だが、実は全国的なブームになるはるか前の1993年ごろから、第一ブロイラーは「蒸(む)し鶏(どり)」の名前で販売していた。当時は食卓に浸透せず、販売不調で撤退したが、先見の明を示すエピソードの一つだ。
 三井物産グループに入って経営体制を見直し、「チアーズ」ブランドの認知度を生かして確固たる地位を確立した第一ブロイラー。高度な生産技術や商品開発力、さらには全国に広がる営業網を持ち、はた目には順風満帆とも思える経営を続けてきた。

 しかし、親会社の三井物産は2006年、業界に衝撃を与える大きな挑戦に踏み切った。それは、グループ内の畜産関連分野の企業を集約し、スケールメリットを生かして畜産事業の収益性を高めることだった。
 やにわに動き出した企業統合。その中核を担う企業として、第一ブロイラーに白羽の矢が立った。波乱の時代を生き抜くため、「プライフーズ」の発足に向けた動きが加速していく。
 三井物産グループの畜産関連企業のうち、統合の対象となったのは、ブロイラー事業を展開する第一ブロイラーと一冷、ハイポー種豚(しゅとん)を生産、販売する日本ハイポー、食鳥処理機械を取り扱うゴーデックスの4社。第一ブロイラーを承継会社とするが、各社とも高度な技術力を持ち、長く企業活動を続ける中で結果を出してきた自負もある。

 そこで、三井物産は2006年6月、当時タイ国三井物産の社長を務めていた白﨑憲二(しらさき・けんじ)を第一ブロイラーの社長に起用し、統合プロジェクトの指揮を執らせた。

 白﨑に課せられたミッションは07年4月までの統合完了だった。残された期間は1年もない。社内には準備委員会が発足し、急ピッチで作業が進められた。
 「生まれも育ちも違う4社。それぞれの特性を損なわずに統合させる方法はないものか」
 各社の状況を把握した白﨑は、悩みに悩んだ。最初に着手したのは、同じブロイラー産業の第一ブロイラーと一冷の組織体制をまとめること。両社は培ってきたノウハウや企業風土が異なる。それまで互いに切磋琢磨(せっさたくま)してきたライバル企業でもあり、営業部門や総務機能の効率化といった内部改革の難航が予想された。一方、ブロイラー事業との関係性が薄い日本ハイポーとゴーデックスは、ある程度の独自性を維持する方向にした。
 一時は統合を白紙に戻すという案も浮上し、当初の目標に掲げた統合完了時期はずれ込んだものの、白﨑は「何としても成功させる」と決して気持ちを切らさなかった。08年4月。約2年の歳月を経て4社が統合し、ついに「プライフーズ」が誕生した。創業者の長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)が第一ブロイラーを立ち上げてから、43年後に迎えた新たな船出だった。
 プライフーズは第一ブロイラーと同じく、八戸市に本社を置いた。社名の由来は「プライド(誇り)」と「プライム(最良)」。誇りを持って最良の商品を製造、供給する会社を目指す覚悟を名前に込めた。ロゴマークは、無限の可能性を示す「∞」をデザインし、3色をメインカラーとした。赤はプライド、オレンジはプライム、緑は環境に配慮した事業活動を表現している。
 プライフーズ発足後も、白﨑は「一体感を生み出すことが大事なんだ」と各社の融合を重視した。人事交流と並行して第一ブロイラーと一冷の営業所を合併するなどの合理化を図り、生産効率の向上や物流システムの最適化を進めた。次第に統合のスケールメリットが表れ、相乗効果が生まれていく。

 プライフーズの誕生は食品ビジネスの世界で注目を集め、業界内での存在感はますます高まった。4社の“化学反応”で生じた光が、まばゆい輝きを放ってきた。
 2008年に誕生したプライフーズは、11年3月に東日本大震災という未曽有の災害に直面した。停電や給水停止といったインフラの途絶により、工場だけでなく飼育する鶏にも被害は及んだ。それでも、直後の6月に6代目社長に就いた山本泰也(やまもと・やすなり)が陣頭指揮を執り、着実な復旧、復興を遂げた。山本は策定した中期経営計画に基づき、三沢みどりの郷(さと)工場の建設を含む積極的な設備投資を実行するなど、強靱(きょうじん)な企業づくりを推進した。

 15年4月には、7代目社長に田中眞光(たなか・まさみつ)が就任。中期経営計画を前倒しで達成したため、新たな中期経営計画を策定、主力工場である三沢市の細谷工場を増築した。さらには、十文字チキンカンパニー(二戸市)と共同で「PJ二戸フーズ」を設立し、業界初となる大手ブロイラー企業同士の統合事業に乗り出した。

 一方、プライフーズは事業規模を拡大しながら地元密着の姿勢は変えず、八戸市を中心とした地域貢献活動にも力を入れる。「チアーズ杯青森県少年少女レスリング選手権大会」の後援、「八戸うみねこマラソン全国大会」の協賛、「プライフーズカップ争奪八戸市U -11少年フットサル大会」の主催など、市民の健康に寄り添った企業としてスポーツ振興を応援。地域の祭りや行事にも積極的に関わり、八戸えんぶりや青森ねぶた祭に協賛している。

 プライフーズの現社長は、18年4月に就任した三井物産出身の大江正彦(おおえ・まさひこ)。2000年10月から約1年半、第一ブロイラーに企画業務室次長として赴任した経験があり、かつて同じ目標に向かって激論を交わした仲間たちと再会した。そんな大江には強い信念がある。
 「日本で一番働きたいと思われる会社にする」
 企業経営で最も大切なのは人材。現場で働く従業員が、価値ある仕事を通してモチベーションを高められる職場にしたいという思いだ。大江は社長就任のあいさつで役職員に呼び掛けた。

 「八戸にプライフーズがあるから地元で働きたいと思われるような会社にしよう。畜産業界の魅力をどんどん向上させていこう」
 現在、プライフーズで働く従業員は約2700人。チアーズブランドを代表するチキンウインナーのようなロングセラー製品を生み出せるよう、消費者に支持される商品作りのために日々励んでいる。

 大江は「日本一働きたい会社」の実現に向け、老朽化した農場や工場のリニューアルを計画する。最新鋭の食鳥処理機械や加工設備も導入する意向だ。
 「消費者の求める安全・安心やおいしい商品作りにつなげるため、積極的な設備投資を進めたい」
 プライフーズが見詰める先には常に、食卓の喜びがある。
 プライフーズ現社長の大江正彦(おおえ・まさひこ)は、将来ビジョンを鮮明に描いている。現在、自社によるブロイラーの生産量は年間約3600万羽。外部からの仕入れ分を含めると、約5千万羽を取り扱っている。大江は飼育農場の拡大や設備投資によって自社生産と外部調達を増やし、供給能力を約7千万羽に高める経営方針を打ち出した。日本のブロイラー生産量は年間約7億羽であり、国内シェア1割の達成を明確な目標として掲げている。

 「安全で安心な国産鶏肉は、もっともっと需要が増えるはずだ」
 プライフーズはブロイラーの一貫生産に加え、種豚(しゅとん)を供給するハイポー事業や食鳥処理機械事業、ケンタッキーフライドチキンとピザハットの店舗をフランチャイズ運営する外食事業なども展開。大江は「こんなに事業が幅広い企業は他にない。オンリーワンの企業だと思っている」とアピールする。

 今後のブロイラー事業に発展の余地があると感じているのは、鶏肉が低脂肪、高タンパクでヘルシーな食材だからだ。鶏肉の安定供給を続けることが、ひいては日本人の健康増進につながるともいえるだろう。
 「ヘルシーな鶏肉商品の魅力を磨き上げていく。新商品も開発し、消費者の健康に貢献したい」
 大江には、その大任を果たせる企業こそが、ブロイラーの一貫生産システムを確立したプライフーズだという自信がある。
 「プライフーズはブロイラーの生産から始まり、営業を通して消費者まで商品を届けられる真のインテグレーション企業。食卓のニーズを受け止め、生産や製造にまっすぐ反映させることができる」
 もうすぐ平成の世が終わる。第一ブロイラーがプライフーズに生まれ変わった激動の時代。“開拓者の魂”を持った創業者の長谷川専之助(はせがわ・せんのすけ)は、今のプライフーズをどう見ているのだろう。彼の先見の明は、八戸がブロイラーの一大生産地に成長するまでの将来を見通していたのだろうか―。

 2019年2月。八戸市北白山台に、八戸本社の新社屋が完成した。先人たちが一から築いた土台の上に、多くの従業員が知恵と力を合わせて歴史を紡ぎ、そうしてたどり着いたのが、今のプライフーズの姿だ。大江は言う。
 「食の安全、安心と共に、鶏肉製品のおいしさを伝えていくのがわれわれの使命だ」
 時代が移り変わろうと、プライフーズには変わらない心がある。魅力的な製品を作り、食卓に喜びと幸せな笑顔を届ける。そして、会社のロゴマークに表現された無限の可能性を信じ続ける。決して妥協はしない。食を創る志は今も、これからも受け継がれていく。